BOTTOMS UP ! 栄町

「SOUTH OF CHINA TOWN」Hiroyuki Tanaka
「SOUTH OF CHINA TOWN」Hiroyuki Tanaka

ここ数年のうちに、神戸のガイドブックやTVの観光案内に「乙仲通」がよく登場するようになった。

 

 「乙仲 -おつなか-」とは1939年の海運組合法で決められた通称で、

定期船貨物の取次をする仲介業者を「乙仲」不定期船貨物の取次をするのが「甲仲」と呼ぶのだそうだ。

「乙仲通」とは、かんたんに言えば貨物船の荷物を運んだ道ということになる。

店を始めた頃、この界隈に昔から住んでいる方や船舶関係で働いている方が 「乙仲」という言葉を使うのを時々耳にしたが、

地元の人間じゃない僕にとっては死語のような印象しかなかった。

 

昔うろうろしていた頃、僕はこの辺を「南京町の南」と呼んでいた。

うろうろするといっても、キディがいた「チャーリー・ブラウン」で昼からビールを飲むか、

 「喫茶コットンで」タンゴを聞きながらミルク入り珈琲を飲むかぐらいだったが・・・

港町特有の少しさびれたムードが好きだった。

居留地とは全然違う、何やら怪しげな路地があちこちにあったのも惹かれる原因だったと思う。

船舶関係や謎の中国貿易商みたいな事務所がならび、古い喫茶店も食堂も年季を重ねた店構えだった。

裕次郎の「赤い波止場」に出てくる神戸の街はきっとこんな感じなんだろうなと思いながら歩いていた。

汽笛も聞こえたし、梅雨時には潮の香りが街を包む日もあった。

 
Bar Moon-Lite 1992年2月オープン時
Bar Moon-Lite 1992年2月オープン時

 

 

1992年、 バー・ムーンライト をオープンした当時も

このあたりはまだ昔のままで、

表通りには銀行が建ち並び、

昼間はにぎやかだが夕方6時を過ぎれば

ほとんど人がいなくなる。

ここの物件 (元はガレージだった) を決めた時も

家主から「夜は人通りないですよ」と逆に心配されたり、

「なんでそんな場所でバーをやるんや?」と、

僕のまわりの人間はほとんど反対していた。

まあ、やってみないとわからんし...というのが僕のいつもの答え。

オープン当初は、さすがに友人と猫しか来なかった.....

 

状況が変わったのは雑誌「Meets」に紹介されてからだった。

 

誰も手を付けなかった 「栄町」の路地裏で勇敢にも酒場を始めたというのが格好のネタになったらしい。

 

 ラッキーだったのは、それをきっかけに情報誌、ファッション紙、経済誌からエロ雑誌まで

次々と取材があった事だ。

商売として考えれば、おかげさまで・・・の一言につきる。

だいたい紹介される時はいつも~神戸隠れ家BAR特集~みたいなテーマだったが、

毎月のようにいろんな雑誌に登場すれば「隠れ家も隠れ家じゃなくなってしまうぞ」と

友人に叱られた。

考えてみればその通り。まるで誰でも知ってる秘密結社みたいなもんか・・・

 

 

その年の11月にハーバーランドができ、この辺りにもカフェやバーやブティックがポツポツ現れだした。

観光ガイドブックには 「栄町」エリアとして紹介され、京都や大阪からからも遊びに来られる方が増え、

昼間はもちろんのこと、寂しかった夜の栄町にも少しずつ人が徘徊するようになった。

バーも増えれば酔っぱらいも増えるわけで、時々住民の方に迷惑をかけ心苦しい思いをしたこともあった。

 

1995年1月17日。そのまま賑わい続けていくはずだった神戸の街は阪神大震災で一変する。

 

築数十年の事務所や銀行はほとんど崩れ落ち、瓦礫となり、撤退していく会社や事務所も多かった。

すっかり開店当時の暗くて怖い路地に戻ってしまったが、

生き残ったお店の人たちは協力し合ってなんとか店をやり続けた。

 

変わり果てた栄町にも2000年頃からようやく復興が進み始める。

新しくビルやマンションが建ち始め「乙仲通りプロジェクト」の街おこしもスタートした。

ずっと借り手のなかった空き物件にもブティックや雑貨屋が次々とオープンし、

たかだか数年の間に100軒近くの店が東西の長い距離に軒をならべていた。

そうして古い「乙仲通」の時代は終わった。

港湾貨物も通らない「乙仲通」は、新しい街「オツナカ」として誕生した。

今、メディアは揃って「オツナカ」を取り上げ、その「オツナカ的」な店を目指してたくさんの人が訪れる。

何が「オツナカ的」なのかよくわからないが、賑やかになることはいい事だと思う。

 

日本の高度成長は、古いものを切り捨てることで達成された。

今でも古い商店街はどんどん取り壊され、どこの駅前にも同じようなショッピングモールができ、同じような有名店が並んでいる。

コンビニやドラッグストアが増殖し、単一化されてゆく街にはもう個性は必要ないのだろうか?

明治から大正、大正から昭和、そして昭和が捨てられ平成に変わるように、

この国はすべて使い捨ての国なんだと誰かが言っていたことを思い出した。

 

できれば「オツナカ的」は「個性的」であってほしいと祈る。

2006年  神戸新聞総合出版センター
2006年 神戸新聞総合出版センター

 

 

切り絵作家の成田一徹さん(2012年没)は、

僕が店を始めるずっと前から、

この界隈をうろうろしていたそうだ。

生前、成田さんは時代に捨てられそうな風景を

「神戸の残り香」にして多くの作品を残してくれた。

その中でも「喫茶コットン」の扉が大好きだ。

残念ながらその「喫茶コットン」(1948年創業) は、

2003年、マスター御夫婦が亡くなったあと、

跡形もなくなり違う店に変わってしまった。

悲しかった。

 

嬉しかったこともある。2007年4月「チャーリーブラウン」が復活したことだ。

僕と30年以上のつき合いのある玉置くんが、がんばっている。

同じく8月、日本のノーザンソウル・シーンで名のある北秋くんが

「パブ・ケネス」を南京町の南にオープンさせた。

その北秋くんとも、知り合って20年になる。

音楽を通して知り合えた後輩たちのおかげで「栄町トライアングル」ができた。

 

それを紹介してくれたフリーペーパーもある。

神戸ノヲト (2010)
神戸ノヲト (2010)
Authentico Vol.1 (2012)
Authentico Vol.1 (2012)

昼は「オツナカ」と呼ばれても、夜は今も「栄町」のままだ。

その「栄町」には、たくさんの景色やお店や人たちとの想い出が詰まっている。

 

僕は「喫茶コットン」の御夫妻や "チャーリー・ブラウン" のキディが生きていた頃の 「栄町」の "残り香" を大切にしたい。

 

その "残り香" は「パブ・ケネス」の北秋くんや「チャーリー・ブラウン」の玉置くんにもきっと届いているような気がする。

 

Bottoms Up! 栄町